聖金曜日、十字架の道、聖書の記述は本当に神の言葉?

聖金曜日(Venerdi Santo)

この日ローマではコロッセオで十字架の道行きと呼ばれる儀式がある。イエスが死を宣告されてから、十字架に架けられ、息を引き取り、埋葬されるまでを、14の場面に分けて思い起こし、黙想し、祈りが捧げられる。

このテーマを描いた芸術作品は数多く存在するが、この時のことについて聖書に書かれていることを思い起こしてみるとそういった作品を理解する上で大いに役にたつはずだ。以下、この日何が起こったのかについて、聖書に書かれた記述を引用しながら解説していく。

ユダの裏切りによって銀貨30枚でイエスがユダヤ人の大祭司や神殿の指揮官等の群衆に拘束されると、彼らはイエスに対し神を冒涜したとして、その身柄をピラトのもとへ引き渡した。ピラトは「この男になんの犯罪も見出せない」と何度も大祭司達を説得し、イエスを釈放しようとしたのだが、群衆の「イエスを磔にせよ!」「十字架にかけよ!」と言う執拗な叫びたてによって、彼らの声が打ち勝つようになったのである。それでイエスは鞭で打たれ、いばらの冠を頭に乗せられて嘲笑され、ゴルゴタ、つまりどくろの場所と呼ばれる丘に、苦しみの十字架を背負って登らされ、それに手足を釘で打たれて磔となった。イエスの外衣は剥ぎ取られ、預言の通り兵士たちはそれを分配するためにくじを引いた。この時この丘で磔になったのは、イエス・キリストと二人の泥棒だった。彼らはイエスの両脇に置かれた。泥棒の一人が「お前が本当にキリストなら自分と俺たちを救え!」と言うと、もう一人の泥棒は「お前は神を恐れないのか!俺たちは、自分たちがしたことに対する当然の報いを受けている。しかし、この方は道に外れたことは何一つしていないのだぞ。」と言い、さらにイエスに話しかけた。「主よ!あなたがご自分の御国に入られる時には、どうか私の事を思い出してください。」するとイエスは「あなたは私とともにパラダイスにいるであろう。」とお答えになった。
さて夜が更けて、闇が全土に垂れこんだ時、イエスは大声で「私の神よ。私の神よ。なぜ私をお見捨てになりましたか。」と叫ばれたと聖書には書かれているが、この記述が論議をよんだ。神のみ子は完全であって、こんな弱音を吐くはずがないというのだ。しかしイエス自身も弟子達にこう言われたことがあった。「絶えず祈り、誘惑に陥らないようにしなさい。もとより、霊ははやっても肉体は弱いのである。」つまりこの叫びは、言い表せないほどの肉体的苦しみの極限の中で、人としてのイエスが私たちに見せた葛藤のようなものではなかったのだろうか。おそらくイエスは御父に催促していたのである。「残された預言が成就するまで私を死なせないでくれ。このままではあまりにも苦しくて、その前に死んでしまいそうだ」と。そして最後の預言が成し遂げられるためにイエスは「わたしは渇く」と言われた。それで彼らは酸いぶどう酒を十分に含ませた海綿を葦の先につけて彼に飲ませようとした。さてその酸いぶどう酒を受けてからイエスは「成し遂げられた」といわれた。そして頭を垂れ、ご自分の霊を引き渡された。
この時、聖なるところの垂れ幕が上から下まで二つに裂けた。それを見ていた士官の中には「確かにこの人は神の子であった」言うものもいた。

さて、遺体を十字架から下ろすために、兵士達はゴルゴタの丘へ行った。その中で、ローマの百人隊長だったがロンギヌスと言う名の兵士は目が不自由であったが、イエスの生死を確かめるために槍で彼の横腹をつくと、そこから噴き出したキリストの血が彼の目に入り、たちまち視力を取り戻したと言われる。その瞬間から彼はイエスに強い信仰を抱くようになった。

十字架から降ろされるとイエスの遺体は岩をくりぬいて作られた墓に埋葬され、戸口の所には大きな石が転がして置かれた。あとはキリストの復活を待つだけだ。そしていよいよ日曜日が復活祭。それについてはまた明日。

 

著者:  原井シュウジ

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