ムッソリーニとコロナ禍

ムッソリーニ ローマ国立近代美術館蔵  アドルフォ ウィルト作

4月25日は、解放記念日で当日の原井氏の記事の様にパルチザン(武装団)の活躍なしではイタリアの解放は成し遂げらることはなかったと、

ロックダウン間もなく2ヶ月となり一丸となりコロナ禍と対抗するイタリア市民の姿が終戦前のパルチザンの姿と重なります。

地図上の赤丸で囲まれたグスタブ防御線という表示の直ぐ近くに点線がありますが、ここを境に1943年の秋から1944年の5月までドイツ軍に占拠されファシズムが蘇ったイタリアと連合軍の保護のもと王制が復興したイタリアに分かれ対立します、なんとも奇妙な状況ですね🧐🧐🧐 その歴史を振り返ってみると、、、

1942年から43年にかけては、多くのイタリアの都市に連合軍によって爆弾が投下されます、1943年の3月には、物価の高騰と食糧不足に不満をもつ労働者のストライキがトリノに始まり、北イタリア中に広がっていきます。同時に水面下で、共産主義者の活動も拡大していきます。

1943年6月12日には、パンテレリア島に連合軍が上陸占拠。パンテレリア島といえば、パッシ-ト(干しブドウワイン)の製造で有名ですね❤️ (ワインに関しては、また別のブログでお話したいと思いますが、、、)

7月10日には、シチリア上陸その後北上しています。

この混乱の中、ファシスト政権内で、王制支持派が産業界、軍隊を巻き込み戦争を終わらせて王制を復活させようと陰謀を企み、

7月24日と25日に開催されたファシスト党の大会で、全ての国の機能が復活させ、王が軍隊の最高指揮官となるという旧大臣でデイ-ノグランデイの提案が賛成多数で可決されます👀

1943年の7月25日の午後、ヴィットリオ エマニュエレ3世は、ムッソリーニを召喚し解任を要求、その後直ぐ軍隊警察により逮捕されます👀

軍隊の総指揮官であったピエトロ バドリオが首相に就任し、戦争は続けると公言しながら水面下で連合軍との交渉を行い9月8日に無条件降伏したことが公表します。国王と高官は、プーリア州に上陸した連合軍に守られブリンデイジに逃れます。(緑色の丸で囲まれたところがブリンデイジです、今でもギリシャ行きの船🚢が出港する主要な港街です。かのアッピア街道の最終地としても有名ですね🧐)

同時に、中部、北部の山間部で反ナチファシスト運動に火が付き、武装団(パルチザン)が編成されていきます。(地図上に黒く塗られているところが、パルチザンの戦場となったところです)

一方北部は、ドイツ軍が同盟から離脱した報復としてイタリア半島を占拠しようと侵入し南下し、9月8日には、ローマのサンパオロ門で反ナチス部隊と衝突します、60万人のイタリア人が捕虜となりドイツに連れ去られます。

9月12日には、ドイツのパラシュート部隊がカンポインペラトーレ向かい、ムッソリーニは、脱獄👀ミュンヘンからラジオでイタリア社会主義共和国の誕生を発表します、高官は、ガルダ湖畔のサロ(地図上青い丸で表示)に移ります

1944年1月に連合軍は、ロ-マの南50kmのアンツィオ(黄色い丸で囲んだ)に上陸し壮絶な戦いが始まります。

同年3月23日ローマでパルチザンのテロでドイツ軍人33名が命をおとします、ナチスドイツは、その報復として薬10倍の335人を射殺するという大惨事がおこります。😢

6月6日のノルマンディー上陸で連合軍の援助を受けられなくなり解放軍はゴシック防御線手前で停滞しますが、45年の春に連合軍の援助が戻り反ナチファシスト団の数も20万に及んだそうです、防御線が突破され、4月25日ドイツ軍はミラノから撤退します。

パルチザンと、政治家、市民が団結し解放が実現した歴史を振り返ると

このウイルスとの戦いもこの団結力があれば勝てる!思えるようになったのは、私だけでしょうか、、、

P/Sこちらは、上述のムッソリーニのマスクを作ったアドルフォ ウイルトの制作したバチカン美術館にあるピウス11世の像です、この教皇様は、イタリアと法王庁が和解するためラテラーノ条約をムッソリーニと締結した人物で、彼の意思の強さや、権力の重さによる苦しみが伝わる傑作です。

By Midori

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